キングアーサー ★★★★☆
King Arthur / Antoine Fuqua / 米・2004年 / 126分 / 製作費 $1億2000万 / 興行収入 $2億
冒頭の別れ。
ランスロットの旅立ちに対し家族は総出で立ち会う。その別れ際少女がランスロットにお守りを渡すシーンの緩さ。長期に渡る兵役で再び生きて会う事が出来ないかもしれない状況において、いやそうであるからこそこの映画のように彼の旅立ちを皆で見送ってはならない。そんな事をすれば失笑に帰す。テントの前に並び、別れを悲しみ、少女はお守りを渡す。
これではお守りを渡しました、というだけでしかない。ちょっと旅行に行ってくるよ的な別れでしかない。親戚の叔父ちゃんサヨウナラでしかない。
お守りを渡す行為そのものには何の意味もない、そこに込められている気持ちをお守りが代弁するのである。そしてそれをどう撮るのか。
家族はテントの中で彼と別れを済まし外へは決して出ない。出てはならない。彼との今生の別れを見たくない。そんな中、ランスロットは外に出て馬に乗り歩み出す。そこで堪え切れなくなった少女が両親の制止を振り切ってひとりテントの外へと駆け出し、ランスロットにお守りを渡す。
この少女の走りがエモーショナルをかきたてる。
例えば "もののけ姫" の冒頭。呪いを受けたアシタカは誰にも見送られずに旅立つ。そこにカヤという少女が駆け寄って来てアシタカにお守りを渡すシーン。ここで大事なのは見送ることが許されていないという事。そうであるからこそ、それを破ってアシタカに別れを告げに来た彼女の気持ちがこの行為によって際立つ。
何かを破ってまで会いにゆく。むしろその為にこそ掟や戒律を捏造する。何かを破らせる為に。そう状況を設定する。だからそうではないこの映画冒頭の別離はボンヤリとしている。「勝利を!!」と叫ぶそれが滑稽に映る。
そして必要のないナレーション。この映画において解説、ましてや予備知識なんて必要ない。
騎士がいる。敵がいる。さらには蛮族がいる。この3つさえ理解出来れば何も問題なく、映画は確かにそれを描いている。
例えば馬車襲撃のシーン。馬車がいる。その馬車に襲いかかってくる敵がいる。そこへ止めに入る騎士達がいる。誰が見ても明確だ。
こういった事と同様に、この映画が描いているのは人権や奴隷、ましてや自由なんて下らないものでは決してない。騎士たちは当初自由になる為に戦っていた。そして念願の自由を得た後、その後、故郷に帰ろうとした騎士達は何の為にアーサーの元へ戻ったのか。
自由の為か?それはもう手にした。ならばあのまま帰路に着けばよい。
では平等の為か?いや、違う。そうならば最初からアーサーと共に残っていたはずだ。
彼等はなぜ踵を返したのか。そんなもの決まっているアーサーの為だ。彼の為だ。自由や平等の為ではない。ましてやアーサーが掲げている信念の為でもない。
アーサーの為に騎士達は戻った。そして戦った。
帰路にある騎士たちは無言で互いの顔を見合う。そこに言葉はない。そして何かを確信したように彼の元へ向かう。そして帰ってきた騎士たちに対し何も言わないアーサー。当然何も言わない。これを映画は描いている。アーサーの信念の為には命を懸けない。だがアーサーの為なら何のその。
だからこの映画においてラストの結婚式は誰の目にも蛇足に映る。さらにはそもそものキーラ・ナイトレイ自体の疎外感が常に付きまとう。なぜならこれはアーサー王物語ではなく、アーサーとその騎士達の物語なのだから。そこに焦点を当てた物語なのだから彼女は邪魔者なのだ。
映画は言葉ではなく映像を信じなくてはならない。言葉にならないそれを映す為に映画はある。明確に描かれている物を見る事。
ならば次は、画にはならない事を信じなければならない。
ラストの戦闘。カメラはサクソンに寄る。まずはサクソン軍の第一陣が開かれた扉の中へと侵入する。すると扉は閉まる。が、しかしその閉門された扉の向こうの様子をカメラは明確に捉える。何が行われているのか、見えないはずの扉の向こうを私たち観客は見てしまう。程なくして開門。その扉の隙間から血塗れのサクソン兵が一人で出てくる。それを目撃したサクソン軍は当然畏怖を覚える。兵士が殺された事に対してではなく、どのように殺されたのかが分からない状況に対して恐怖を感じる。
このように扉が閉まる、そこから出てくる兵士、それを見るサクソン、と演出しているのに、観客はサクソンが見ていない状況を完全に見てしまっている。
ならばこのような演出はいらない。
折角扉を閉めたのだからそれを有効に使い、カメラの場所を定めるべきだ。カメラが散漫過ぎる。つまり視点がぼやけている。
わざわざ扉を閉め、サクソン側にカメラが在るのならば当然第一陣が入った後もカメラはサクソン側に在り続けるべきだ。そして音、もしくは音から "見える" 映像のカットだけを挿入し沈黙の後、扉が開かれ血塗れの兵士が排出される。
そして残されたサクソンと共にカメラも扉へ向かい突入。そしてそこで何が起きたのかをサクソンと共に感じようではないか。視界が奪われ、機動の差を突かれ、追いすがろうした所を遠方からの一斉掃射。その見事さをサクソンと共に体験しようではないか。
映画は言葉ではなく映像を信じなければならない。さらにその映像には映すことの出来ない何かを信じなくてはならない。
この映画にはこういったブレが所々ある。例えばそれは城壁の "内" と "外" その切り取り方の拙さだったり、馬車襲撃時における騎士たちの登場シーンのマズさだったりと。ただラストの戦闘のように画で魅せ楽しませてくれる。
素晴らしい。
そしてさらには騎士たちの会話の匠や故郷を思っての歌。彼らがその歌を聞いて思い出したのは故郷であって素晴らし歌に感動した訳ではない。しかもそういった歌が割りと良い歌だったりする事。後は立ち位置。城壁、馬、地下。こういった立っている場所そのものが示す立場、さらにそこから降りるか、登るか、といったアクションの有無が表す信条。
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